深い。「請求書の祈り」と「領収書の祈り」

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僕の実家である富山の田舎のほうでは、お坊さんの事を「ごぼさん」って呼んでいます。その「ごぼさん」がお経を一通り唱えると、毎回ありがたい話があるんですよねぇ。・・・今回もありました。

「いや~、この世には大きく分けて2種類の祈りってのがありましてね。」

・・・?ちょっと構えて聞いてたんですが、「『請求書の祈り』と『領収書の祈り』ってのがあります」と続けられて、内容を理解しました。

「請求書の祈り」とは

「健康でありたい」「もっと幸せになりたい」とか願い事を祈ることは「神様、ご先祖様、どうか~してください」という「請求書の祈り」だそうで、とても多くの方々がやっているそうです。ああ、僕もやっていましたねw「今年はもっと頑張りたい!」みたいな。

「領収書の祈り」とは

例えば、法要などは親族が集まる時があるじゃないですか。「一同、集まるきっかけを作ってくれてありがとう」とか、日ごろ気が付かないような事を気付かせてくれた感謝の気持ちを祈りに込める方をおすすめしているそうです。それが「領収書の祈り」という。なるほどなぁ。

最近は「領収書の祈り」になっていたけども・・・

数年前に、例の「ごぼさん」から「請求書の祈り」「領収書の祈り」とは別の伝え方で、「ご先祖様には、自分のお願いごとじゃなくって、感謝の気持ちを込めたほうがいいですよ~」と言われていたので、それ以降は「領収書の祈り」になってたんですが、なるほど。

仏教思想家のひろさちやさんは、祈りには2つの種類があることをこう表現します。

「宗教心というと、今の日本人はすぐに御利益信仰を思い浮かべますが、神様にあれこれ願い事をするのは宗教ではありません。ああしてください、こうしてくださいとまるで請求書をつきつけるような祈りを、私は『請求書的祈り』と名付けていますが、本物の宗教心というのは、“私はこれだけのものをいただきました。どうもありがとうございました”という『領収書的祈り』なんです」(『サライ・インタビュー集 上手な老い方』より)

私が一億総初詣に「どうもなぁ」と思ってしまうのは、その多くが「請求書的祈り」になっていやしないかと思うからです。そしてそこには「500円玉でも投げ入れて、これをきいてもらおう」という「さい銭」が飛び交います。もし、これで、本当に願いがかなってしまうのなら、私はその神仏や信仰心(?)は、逆に危ういものだと思います。

(引用:“請求書的”祈りから“領収書的”祈りへ

ふむふむ、そういう考え方もあるか~。今年は5円玉が手元になかったんで、50円玉にしました。僕は、初詣は割と何も考えていないことが多いですね。敢えて振り返ってみると、あの鐘みたいなのをカランカラン鳴らすことだけ考えてるかも。

この正月時期は、お参りの列も大変混み合ってますよねぇ。僕は、お参りの列に並ぶことが精一杯であんまり集中してお祈りができないでいます。お参りに時間取っちゃうと、後ろの列にも閊えますし。

しかも、みんな真ん中の列に並ぶんで、「真ん中じゃなくてもいいんじゃないの?」みたいに家族でワイワイ喋りながら初詣に出かけている感じです。あと、おみくじね。「おみくじ引いた?あっちに変わったおみくじあるよ」とか、騒ぎながら。結局、おみくじ引きに行ったんじゃないんか?と思ってしまうくらいに・・・。

そう考えてみると「家族集まって、ワイワイ騒ぎながら話ができることってあんまりないよね。」と思ったので、そんな機会があることは感謝したいので「領収書の祈り」でしばらくいってみようかな~と思います。

著者:bouya Imamura